2020年の日記

2020年の個人的な日々を記録 

ゆうめい 「弟兄」を観て考えたこと

「ゆうめい」という劇団がある。この劇団は、主宰の池田亮さんの実体験に基づいて作品をつくっている。(私は演劇初心者で不勉強でごめんなさい)先日、同劇団の「弟兄(おととい)」という作品を映像で観る機会があった。その後、アフタートーク的なものも聞く機会があり、考えたことがあるので簡単に書こうと思う。

 池田亮さんが中学生時代に受けた壮絶ないじめが題材になっている本作。現在の池田さんが中学当時を回想しながら、いじめを脱した高校時代の親友の死や、大学生でいじめの主犯と再会するまでを描いている。いじめのシーンは見ていてとてもつらくなるのだけど、笑える場面もあり(わたしはつらさが勝って、笑うという感じではなかったけれど、息継ぎになった)、東京事変の「女の子は誰でも」をBGMに、一気に物語の速度が増していくラストは最後は爽快感すら覚えた。ほぼノンフィクションの重たい内容だがエンターテイメントの要素も強く、観終わったあとは圧倒されて、少し経つと切なさも押し寄せて、ちょっとすぐに動けないというか考え込んでしまうような感じだった。

 「弟兄」はなんと、いじめた側の人物も含めて全て実名で作られている。上演にあたり本人たちに許可取りもしたというから驚きである。冒頭では現在の池田さんが、「春日部の奴ら、覚悟しろーーーーー!!!!」と絶叫してから本編がはじまるのも強く印象に残った。中学当時から今までの苦しさや恨みや悲しさを、「弟兄」では全て出して観客に見せている。きっと全てを他人に見せることには勇気がいったろうし、どう物語として組み立てるかも工夫を重ねたはずだ。それでも、かつての日記なども頼りにしながら、思い出したくなかったであろう体験を洗い直し、自分の中で何らかの結論づけをし、笑いまで入れて一つの作品にしている。

 つらさや悲しさを体験した時、それをそのまま人に話すことには、私自身抵抗がある。きっと自分の弱さを人に見せるのが怖いのだ。それに、感情的になる前に一度自分の中で考えて、消化しようとする癖がついてしまっているから、つらい悲しい、と思った瞬間にその感情を外に表すことができない時があったりする。平気なふりをしたり、オチのある話として人に話して笑ってもらおうとしてしまったりする。でもそうやって外に出さないと、もちろん誰にも気づいてもらえず、時間が経ってますます出しにくくなったその傷は、静かにますます腐っていくのである。「弟兄」はそう言ったもろもろの葛藤を抱えながらも、一つの作品にまとめあげたのだと思う。実名でやるべきだったか、笑いを入れるべきだったか、など賛否両論あるかもしれないが、それでもつらいことをつらいと言えることは強いし、観客に勇気を与えていると思う。私は、つらいって言っていいんだ、出していいんだと思えた。池田さんは、「弟兄」について観客から感想をもらうことが多く、自分もいじめられていたという内容のものもあるという。当初は自らの体験を出すという目的だったが、だんだんと観た人はが何を感じてくれるかという目的に変わっていったという。自分のためにだったことが、気づけば人のためになっていたということだ。表現していけば次の景色が見えてくる。そう信じて、苦しさや悲しさを閉じ込めず、表現していきたい。そう思わせてくれた、「ゆうめい」の「弟兄」だった。